
もっち
- 関東大手SIer勤務
- 10システム、仮想サーバ約200台の基幹系システムが稼働する仮想化基盤のインフラ運用リーダー
以下3点について、ブログで役立つ情報を発信
- インフラ技術・システム運用
- キャリア・マネジメント
- エンジニア実務・仕事術


もっち
以下3点について、ブログで役立つ情報を発信
今回、このブログの作者である「もっち」のプロフィールを紹介したいと思います。
私は現在、関東の大手SIer企業でITサービスマネージャとしてサーバの運用管理を担っていますが、もともとは中部での採用でした。
そこで、私の幼少期から現在までのプロフィールをまとめましたので、お時間のある時にでもテキトーに斜め読みしたり、興味のある部分だけを読むなどしていただければ幸いです。
長いので前編(学生時代編)、中編(新人研修〜中部配属編)、後編(関西大阪〜東京転勤編)に分けています。今回は中編(新人研修〜中部配属編)となります。


大学院を卒業後、私は社員1万人規模の大手SIer企業に入社しました。全国に拠点を持つだけでなく、海外にも複数の支店がある企業です。入社後、東京で6ヶ月間の新人研修があるため、会社の寮を利用しました。寮は複数候補があるのですが、たまたま私が入った寮に同じ大学の同期(その時は初対面)がいたため、入社早々、仲間ができて心強かったです。
入社式当日、会場である東京都心に向かうため、生まれて初めて通勤で小田急電鉄に乗りました。都心に向かう電車の中は、朝の通勤ラッシュによって激混み状態となり、あまりの込み具合で息苦しくなるほどでした。ただ、実際の研修場所は都心から離れていたため、毎日の通勤は入社式と違いラッシュに巻き込まれることはありませんでした。
大学は実家から通っていたこともあり、初めての一人暮らしで戸惑うこともありました。風邪をひき、体調不良になった場合に病院の場所がわからず、家で寝ていたこともありました。
実家から米やインスタントなどの差し入れの入った段ボールの中に母親からの「初めての環境で大変だろうけど頑張ってね」という手紙が入っており、それをみて涙した記憶があります。今までご飯や洗濯など家のこと家族にを頼りきりだったことを自覚した瞬間でした。
新人研修はグループ企業合同で行われ、東京に集まったグループ企業の同期は、総勢400名です。その圧倒的なスケールの中で、私の新社会人生活は始まりました。400人の新人は約40名ずつのクラス単位に分けられ、学校のような親密さと、プロとしての緊張感が共存する独特の環境に身を置くことになりました。
研修の前半は、プロフェッショナルとしての武器を揃える日々です。ビジネスマナーやロジカルシンキング、マーケティングといった「ビジネスの定石」を叩き込まれました。中でも最も心に刻まれているのは、チームで挑んだ実践型ロールプレイングです。顧客から手渡された一通のRFP(提案依頼書)から、そこにある課題を解決するため、私たちはチーム一丸となって顧客のもとへ足を運び、真のニーズを探りながらチーム一丸となって協力したことを覚えています。
研修の後半は、コンピュータの仕組みやプログラミングというIT技術について学ぶことがメインになりました。クラスメイトと切磋琢磨しながら一歩ずつ前進していく環境は高校時代を思い出され、楽しい日々を送ることができました。
情報系の大学院を卒業し、基本情報技術者の資格も持っていた私は、IT未経験の同期が多い中で「自分はリードする立場だ」という自負がありました。しかし、チームでソフトウェアを開発する研修で、私は周りのペースを考えず、一人でどんどんプログラミングを進めてしまいました。また、プログラミングがあまり得意でないメンバーに対してダメ出しをしたり、色々口出しするようになってしまいました。その結果、チーム内の雰囲気が悪くなり、協調が崩れていってしまったのです。
「いくら知識があったとしても、一人でできることには限界があり、チームで大きな価値を出すには、知識を共有し、全員で歩幅を合わせなければならない」
そう痛感してからは、一転してメンバーにプログラミングのやりかた仕様を根気強く教える側に回りました。自分の知識を言語化し、仲間の理解を助けることを心がけました。最終的にソフトウェアを完成させた時、メンバーから得られた信頼は、どんな高い技術スコアよりも価値のあるものです。この時、私は「個の技術」から「組織の力」へと視点を移す一歩を踏み出すことができたのだと思います。
無事、新人研修を終えて配属されたのは地元・中部地方(名古屋)の製造メーカーを支える客先常駐部隊でした。実家から職場まで、30分から45分ほどの通勤時間で、慣れ親しんだ土地での生活でした。
配属初日のことは、今でも鮮明に覚えています。挨拶もそこそこに、突如として大規模なシステム障害が発生しました。現場は怒号が飛び交い、電話が鳴り止まない大混乱状態に。頼りにしていた先輩エンジニアたちは皆、障害対応のために現場へ走り去り、私はただ一人、何をすればいいかも分からず取り残されてしまいました。
「自分は大学院まで出て、資格も持っている」 そんなプライドは、点滅するアラートランプの前で木っ端微塵に砕け散りました。現場には、教科書には載っていない「呼吸」があり、プロとしての「覚悟」が必要なのだと思い知らされた瞬間でした。
最初の任務は、製造ラインの根幹を支えるサーバ群の運用監視の業務でした。監視手順書に基づき、リソース状況をチェックし、ジョブのエラーがあれば、必要に応じてジョブの再実行を行います。深夜のアラート対応では、一歩間違えれば巨大な工場の稼働を止め、数億円単位の損害を出し兼ねないという重圧が常にありました。
そんな中、私は大きなミスを犯してしまいました。定期メンテナンス作業でサービスを停止する際、確認不足から「停止予定ではない別のサービス」を誤って停止させてしまいました。
幸いにも、それは既に廃止された古いサービスで実害は出ませんでしたが、もしそれが現役の生産管理システムだったら……。冷や汗が止まらず、背筋が凍りつくような恐怖を覚えました。その後、上司からの厳しい叱責を受けながら、私は「指差し確認一つ」に込められた責任の重さを、身をもって学ぶことになったのです。
その後、別の顧客企業への常駐がきまり、職場を変えることになりました。新しい職場では、WEBシステムの運用管理と運用改善の業務を行っています。私はWEBコンテンツの更新やデータベース管理に加え、サポートデスクとしてユーザーのPCトラブル対応も行いました。
学生時代に学んだ知識は、確かに自分の業務を土台となっています。しかし、実際に業務で必要な知識はそのような教科書の理論だけではなく、「いかに他のシステム担当者から正確に状況を把握し、いかに分かりやすく報告するか」といったコミュニケーションスキルも非常に重要だったのです。
コミュニケーション経験のなさから、顧客や上司への報告がうまくできず、何度も叱られました。また他システムの担当者とうまく意思疎通ができず、呆れられて相手にされなかったこともありました。
加えて、業務でしか使わない特殊なソフトウェアの操作、業界固有の用語や知識など、学生時代のITスキルが通用せず、自分の無力さに打ちひしがれる日もあり、一人トイレの個室で泣いたこともありました。
しかし、その泥臭い経験こそが、私を「頭でっかちな学生」から「現場を支えるエンジニア」へと変えていきました。中部での数年間の業務により、ITというツールを使って「人の営みを守る」ことの尊さを私に教えてくれたのだと思います。
顧客企業より、契約終了を言い渡され、客先常駐部隊は終了となりました。次の現場が決まらない中、一つの知らせが舞い込んできました。
それは関西地方で、顧客企業のオンプレミスサーバを仮想化し、自社のデータセンター内の仮想化基盤へ移行するという大規模移行プロジェクトがあるので、そのプロジェクトに参画しないかという誘いです。上司からその話があった際、私は二つ返事でOKを出しました。中部での経験をもとに、更に大きな現場で働いてみたいと思ったからです。
数カ月後、私は関西、大阪の地に降り立ちました。その後、関西にあるデータセンターの基盤管理チームとして配属され、インフラエンジニアとしての本格的なキャリアを積んでいくことになるのですが、長くなるので、一旦今回のプロフィールはここまでとします。
続きが気になる方は、後編(大阪〜東京転勤編)も御覧ください。

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